倫理リーダーを育てる(2)〜どこから始まっているのか、終わりのはじまり〜

〜どこから始まっているのか、終わりのはじまり〜
政治はオリンピックの開催の動向を見ても明らかなように、世論に同調するところがある。今回の飲酒の一件もそうだ。どう考えてもあり得ないだろうと思っていたら、流石にまずいと感じたのか、スタジアム内での飲酒の検討は白紙に戻った。
まぁ、オフィシャルサプライヤーのアサヒビールの英断といってもいいが、アサヒも一歩間違えば不買運動にさらされるところだったはずだ。
ようは、おかしな決定や、あり得ない発言や行動に関して、明確にNGを伝える力が大切になってくる。しかし、いまその力が徐々にではあるが確実に薄れてきている感がある。
倫理観や道徳感の喪失は、何も言わなかったり、どうせ言ったところで、馬鹿に塗る薬りはないどばかりに、ダンマリを決め込んだ正にその時に、失われるのでは無いだろうか。
エッ、こんのくらいならいいんだ!…とばかりに。そしてこれは政治家達だけに限った話ではない。組織の中でも町内会でも家族の中でも、それは倫理の壁を乗り越えるチャンスを、虎視眈々と狙っている。
言い換えればこれは倫理や道徳の継承行為が、トップから末端に、上司から部下に、親から子へと、正しく正確に繋がっていないことに理由があると考えられる。つまり、慣習としての共通の認識(=当たり前)の醸成が、残念ながら不十分であり、正しく継承されていないことに、原因があるのでは無いだろうか。
伝言ゲームでは無いが、個人間や特定のグループ内で誤った理解や伝わり方があったとしても、それを囲い込む(監視する)ひとつ上の集団や組織で是正することにより、誤った認識の継承は避けられてきた。
この倫理的影響の世代モデル(Facebook掲載図、又は「資料&論文」の2021.5.30掲載「倫理を育てる(1))参照)は、世代間における倫理的影響の伝承度合いのイメージだ。転換点の現在まで減衰した倫理観や道徳感を、今後私たちの世代以降、いかにして増幅させていけるかが大きな鍵になる。
失いかけている人間としての「あるべき判断と選択をする力」は、無くさないための行動を取らなければ失われていくばかりだ。それは、環境破壊への対応と全く同じだ… もともと環境破壊に至った原因は、このあるべき判断と選択をする力を失ったことに端を発しているのでは無いだろうか。
失ったものを取り返すには、それを得たときの力の何十倍もの力が必要だと言われている。本当に取り返しのつかなくなるまえに、私たちはもう一度、私たち自身の行動や考え方を見直す必要がある。
p.f.)情報がどのように世代から世代へと受け継がれていくのか、また、上の世代が伝えるべき知識を持ち、下の世代が学ぶ意欲を持つことが重要!
社会で倫理が失われていく過程を振り返ってみると、公や私の指導者たちの非倫理的な行動を許したり受け入れた時期や一連の出来事が、「間違ったことが許容されるようになる」道への第一歩として作用した、と言えるかもしれません。結局のところ、社会が公的な行動に許可を与えたり、非難したりすることから、よくも悪くも規範が生まれてくる(続く)